気になる人がいた。
午前中のNHK。山登りする人々のノンフィクションだった。毎年楽しみにしている花があるという30代の女性。花に会うため、カメラを持って一人で山登りをしていた。
そういうものが、ある人はステキだと思った。
彼女の名前を、SNSで検索しようと思ったがやめた。
彼女がもしも
「この花、今年も見つけましたー!」
と、写真付きで発信していたら興ざめだ。
あるいは、彼女のアカウントを見つけ、
「この人方、本当に素敵、憧れる!」
と自分が発信すると、私は満足する…のか?
SNSとどう向き合うか。最近また考え込んでいる。
考える時間が増えると、発信頻度が減り、閲覧時間だけが無駄に伸びていく。
心が忙しくなるばかりで、精神衛生上よくない。
ハッと我にかえり、急いでモバイル画面を閉じる。
クリエイターたるもの、情報発信に関しては積極的でありたい。SNSを利用しない手はない。使えるものはなんでも使え。使わない者はバカ。風潮が背中を押す。だけどやっぱり自分には合っていないらしい…。そう認めると、発信意欲はあっという間に失われていく。
認めているが、認めていないことにしている。
単なる受け手としての意欲も減退気味だ。最近、Googleなどの検索サイトより、ツイッターやインスタグラムの方が新鮮な情報が手にはいることが多い。しかしどうしても、見なければよかったと思うものにも触れることにもなる。
最近特に苦手なのは、最初の発言主の言葉よりそこにぶら下がる第三者の存在。その発言主を異様に持ち上げたり、感想を述べ合う姿。SNSでのやりとりは常に第三者に見られている。独り言のふりをして他人にアピールをするのはSNSの"正しい"使い方なのかもしれない。でも、真似できない。プライドが邪魔をしているのか。単なるひねくれ者精神か。
SNSを全くやらない友人達と話すのは気楽だ。気楽で、どこか清々しい。面と向かって人の話を正確に聞き、自分をそのまま見てもらうことが楽しい。そのやりとりは全世界に向かって発信されない。クローズドな空間にホッとする。
山登りの女性は、テレビの中だけにいた。それでいい。新たな繋がりや、彼女個人の心情を覗き見したくない。なんでもかんでもSNSを通して繋がってしまえることに居心地の悪さを感じる。
本当に必要な情報だけを受け取り、かつ本当に自分を必要としてくれる人だけに届けたい。私なりのSNSとの付き合い方を未だに模索している。